鶴研究員への書簡:

経済産業研究所 鶴上席研究員殿
「司法と経済」研究会に出席して:
弁護士 川村明

「ADRの振興を日本経済再生の起爆剤にする」という鶴先生の研究報告は、我々司法の現場にいる者から見て若干奇抜な発想と言わざるを得ませんが、その着想の根底にあるものには共感するところがありました。
 私は、日弁連で所謂「外弁問題」を担当していましたが、途中でこの問題は「WTO体制下のプロフェッショナル・サービス貿易問題」に発展し、更に最近の「司法改革問題」の一部になって今日に至っています。私は、その過程で、現代社会の弁護士業が司法制度問題に留まらず産業政策の重要問題に発展していくのを目撃してきました。現在、先進各国において弁護士制度は産業政策の一つの柱として捉えなおされています。そこでは、国民経済の安定的成長に弁護士の果たす役割が重要性を増しているのみならず、弁護士業そのものがGDPや雇用において重要な部分を占めるに至っているからです。これこそ、鶴先生をして「ADRが日本経済再生の起爆剤に」なると言わしめた真の理由ではないでしょうか?

(1) 司法改革と弁護士の独立:

誤解されないように申し上げておきたいことは、弁護士業が現代社会から求められている役割を果たすために欠かせない要素は弁護士の高度な倫理性と独立性であるということです。弁護士業の単なる効率化、経済的合理化ではないのです。逆説的なようですが、「弁護士道の非経済性」の中にこそ、弁護士が現代経済社会で果たすべき役割があるのです。

弁護士の使命である「自由と人権」、「正義と衡平」或いは「公開と透明」が経済の負担となるのではなく、むしろ経済の制度的基盤にならなければなりません。エンロン事件は、現代社会の弁護士に求める役割が「経済の正義」にあることを象徴的に描き出したと思います。エンロン事件は会計事務所だけではなく、関与した弁護士の責任を巡って大訴訟になり、その結果サーベンス・オックスリ法という法律が制定され、その下でSECが詳細な弁護士の責任を定める規則を施行しました。これによって弁護士業は軽んじられるどころか益々重い責務を負うことになり、言い換えれば経済界は益々多額の弁護士費用を投入する結果となっています。

法曹界以外の世界からは「弁護士会の神学論争」とか「教条主義」とか揶揄されてきましたが、「倫理と独立」、「自由と人権」の弁護士でなくては社会の制度基盤としての役割も果たせないのです。

(2) 弁護士制度改革と経済基盤:

我々弁護士は「正義」について議論することは得意ですが、「正義の経済」には疎いものがあります。ですから、「司法改革のような正義の問題が経済を動かす」という先生の発想はなかなか刺激的です。

パリのOECD本部で、1990年代の半頃3年間に渉ってプロフェッショナル・サービス貿易自由化についてのワークショップが開催されたことがあります。私も委員として招かれ、討議に参加しました。そこでよく取り上げられたのは、アメリカのリーガル・サービス・セクターの全GDPに占める割合が1.4%に達しており、これは個別製造業のどのセクターよりも高いという事実でした。リーガル・セクターの雇用でみるとこの割合は全雇用の1.2%に達していました(OECD Issue Paper, DAFFE/INV/PROF(94) p.5)。日本のデータはありませんでしたが、これはアメリカだけの現象ではなく他の先進国でも大なり小なり見られることでした。

日本のGDPは当時から550兆円を前後していますから、これに1.4%を掛け合わせると日本の弁護士業界のGDP値は7.7兆円に達していても不思議ではないわけです。大雑把に言って「日本の弁護士業は10兆円産業になりうる」ということではないでしょうか?私は、日弁連の平成12年の調査(法律新聞 1418号 平成12年7月21日3頁)に依拠して現在の弁護士業界の粗収入総額を5,400億円と推計したことがあります。私の推計が当たっているかどうか自信はありませんが、いずれにしても何兆円というような数字から程遠いことは間違いありません。もし、アメリカの前例をなぞる事が出来るとすれば、日本の弁護士業界は先生がご指摘になるように巨大な成長可能性を秘めているのです。

日本とアメリカの弁護士では比較にならないと思われるかもしれません。片や訴訟狂の国で100万人の弁護士、他方は紛争の円満解決と2万人の弁護士の国ですから。しかし、果たしてそうでしょうか?アメリカも元々訴訟狂の国ではありませんし、弁護士が支配する国でもありませんでした。1930年代の大恐慌から国民経済を立て直したニューディール政策の一翼を担った司法改革派や、70年代の公民権法下での大訴訟時代を経て現在のアメリカの弁護士業界があるのです。特に「アメリカの衰退」と言われた80年代を、再度の繁栄と成長の時代へと導いたものは知財、サービス重視の産業政策の実行を担ったアメリカの弁護士業界でした。先に紹介しましたOECDのワークショップの報告書も、70年代にアメリカのリーガル・サービスの伸びが106%であったと報告しています。アメリカの弁護士業成長の裏には、弁護士業界に社会改革の推進者としての役割を割り当てたアメリカ社会の戦略があったのです(ご参考に、日本リスクマネージメント協会の論文集「リスクマネジメントートゥデイ」第六巻1号に寄稿した私の論文を添付します)。

日本の弁護士改革も、これにアメリカで起こったような目覚しい効果を挙げさせるためには、単なる規制緩和や大量養成だけでは足りません。アメリカ社会がしたように、現代社会での役割に相応しい経済的基盤を戦略的に与えなければならないのです。これを私は「正義の経済」と呼んでいるのです。

(3) 訴訟の強化:

経済的基盤の強化とは、その役割を果たすために必要な人的・物的資源が社会から司法に惜しげもなく割り当てられるということです。裁判所や裁判官の施設や人員の強化はその最もわかり易い例でしょう。訴訟にももっと資金が使えなくてはなりません。アメリカの裁判で巨額の損害賠償金がよく話題になりますが、その巨額の賠償金を得るために投入されている巨額の弁護士費用や立証活動費用のことは余り知られていません。

訴訟効率化のためには、弁護士は短い限られた時間内に徹底した科学的立証を求められます。短い時間で、完璧な証拠収集と調査をするためには、最早少数の弁護士だけの力では足りません。強大な法律プロフェッショナル集団が必要です。アメリカでは、リティゲーション・サポート・サービスという隣接プロフェッションも育っています。こうして徹底した調査と議論が尽くされるからこそ、裁判所は難しい法律問題に短い審理時間で大胆な判断が下せるのです。そして、裁判所が大胆な判決を出すのをみて、社会は裁判に多額の費用と資源を投入することに納得するわけです。

訴訟の全てが費用のかかる訴訟社会になったら困ると思われるかもしれませんが、それこそADRの振興が必要な理由なのです。巨額の費用をかけた大訴訟の判決が出ると、それは裁判の世界では判例・前例として法律同様の力を持ちます。練達の弁護士なら、そのような強力な判例があればADRによって同種の事件を衡平に解決することができるのです。「訴訟好き」のアメリカでも、裁判所に提起される法的紛争の90%近くがADRによって解決されていると言われています。ADRがアメリカのような社会でも受け入れられているのは、強力な判例や前例が積み上がっているからです。

強力な裁判の裏付けのないADRは、結局紛争の談合的解決であり、社会の信認を得られません。ADRは単なる文化の問題ではなく、社会経済問題なのです。大訴訟とADR、これが二本柱として共に育っていかなければならないのです。

(4) 法律扶助・公的弁護の拡大:

訴訟が費用のかかるものになると直ちに問題となるのは、低所得者、ハンディキャップのある人たちに対する援助体制です。70年代の前半には私はオーストラリアのシドニー大学に留学していましたが、その頃、アメリカに始まり、イギリス、オーストラリアに波及した法律扶助の大改革に目を見張りました。卒業の頃、訳があって連邦政府の法務省にあたるアトーニィ・ジェネラルス・デパートメントの次官と面談したことがありましたが、その時、同省の総予算の三分の二を法律扶助関連がしめていると聞いて驚いたことを覚えています。

有名な「砒素ミルク事件」のような大消費者訴訟も、一部の善意の英雄的な弁護士の奉仕精神に委ねられ、美談で終わりました。弁護士は常に美談になるようなことをしなければいけませんが、こういう事件が何時も美談に依存しているようでは司法の意味はありません。こういう問題の原因と責任の所在を追及する訴訟は公益に合致することです。こういう事件には法律扶助資金を惜しげもなく投じて、徹底的な調査と審理が出来るようにしなければならないのです。

(5) 自由闊達なプロフェッションの興隆:

先日、「グローバル・メガ・シティの興隆」という考え方を提唱しているシカゴ大学サスキア・サッセン教授のことを紹介しましたが、同教授は幾つかの著作の中で、東京・ニューヨーク・ロンドンのようなグローバル・メガ・シティにおいて弁護士のようなプロフェッショナル・サービスが繁栄し、そのようなプロフェッショナル階層が新しい都市文化の担い手となっていっているという事実を指摘しています(Saskia Sassen, メThe Global City-New York, London, Tokyoモ 2nd Edi. Princeton University Press 2001)。

東京に関する限りサッセン教授の過大評価のような気もしますが、現に東京に住む弁護士としてはサッセン教授のご託宣には大いなる希望を感じます。我々弁護士階層が東京の自由で闊達な文化の中心的担い手になれるというのですから。

今次の司法改革によって弁護士の役割が高まると共に、弁護士会が法務省や官僚組織の代替物のようになってリーガル・プロフェッションを管理するようになるのではないかという懸念があります。そんなことになっては何にもなりません。弁護士たちの自由闊達で創造的な活躍こそ改革の要であり、自由な社会の基盤なのですから。(このことは特に指摘しておく必要があります。日本の弁護士人口は戦後永年に渉って14,000人を前後してきましたが、司法試験制度の改革が実施された2000年頃から急速に増加し、現在既に20,000人に達しています。これはニ、三年のうちに過去の倍、28,000人くらいになります。すると、日本の弁護士会は強制加入ですから、弁護士会の財政規模は自動的に以前の倍に成長することになります。しかも、当分成長し続けることが確かなのです。経済の立場からものを見る鶴先生には、このことが弁護士会にどれ程の変化をもたらすかということをご理解いただけると思います。)

(6) 結び:

ロースクールと新しい法曹養成制度や陪審制度に準じるような裁判員制度の社会に与えるインパクトについても議論したいことがたくさんありますが、きりがないのでやめます。我々が取り組んできた司法や弁護士の問題について経済政策の立場からも見つめなおすという経済産業研究所の先生方の試みは大変意義あることだと思います。是非発展させてもらいたいと思います。私に出来ることであれば、何でもご協力を惜しみません。
鶴研究員からの返信

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